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 もうなんかピングドラムの最終回見てどうにもたまらないのでたまらないことを吐き出しておきます。考察の体すらなしていないよ。雑感だよ。雑感という程整理されてもいない。ていうかほんとわたし気持ち悪い。わたしがきもちわるい。
 なんか、ウテナの最終回と同じ感覚に襲われた。なんなんだろうねあれ。例に因って大号泣ですよ。家族の話だからか。わたしは双子に弱いんだけど、家族にも弱い。
 ほいで、以下隠します。盛大にねたバレを含むので、見てなくて見てみようかなって思っている方は見ない方がいいよ! ていうか長過ぎて気持ち悪いよ! 自分用の備忘録っていうかもう掃き溜めだよ。

*とりあえずの人物スケッチ
 ◆高倉家
 晶馬:なんかすごい自罰的な印象。中盤までは一番常識的でまともだった。生い立ち的にも一番わかりやすい気がする。愛されない愛せない理由はテロリストのこどもに生まれたから。それは変えられないし甘受するしかない運命なのだ。
 冠葉:イケメン。陽毬愛してる。自己犠牲精神の塊のような人物だ。実の弟妹のため、陽毬の命のため、晶馬には(陽毬のために)能天気で笑っていてもらうため、自分だけ傷ついて自分だけでなんとかしようとして、そうすることで兄として高倉家の家族の一員である自分を見いだしたかったのだろうか。両親からも認められたかったっぽいし。実父からは失望の言をいただいているしなあ。
 陽毬:かわいい。高倉家の癒しである。母親に捨てられたところを選んで助けてくれた晶馬が運命の人。だけど自分のために修羅の道を行こうとする冠葉を止めようと追っかける。よくわからん。
 おとん&おかん:理想に燃えたテロリスト。世の中不公平だよね。そんな世の中壊さないといけないよね。選ばれたものだけが価値を持つ世界を憎み、選ばれなかったこどもの末路であるこどもブロイラーに対する嫌悪もある。だから陽毬を引き取ることにしたのだろうし、同志の忘れ形見である冠葉も引き取った。まあ冠葉の場合は構成員として養成するって意図があったのかも知れない。基本的におとなの都合が見えないからなあ。そういうところ、こどもの視点で作られているということなんだろうか。ともかく、眞悧さんからして、つまりピングループ=企鵝の会=ピングフォース自体だけど、サキノハカっぽいなあと思ってしまう。ちょっと違うか。

 ◆苹果ちゃんち関連
 苹果:姉の死んだ日に生まれた子。自分が姉の代わりになれば、離婚した両親が元通りになって家族が揃うと思い込んで、姉の思い人を必死にストーキングするという。
 桃果:苹果の姉。運命の乗り換えをする呪文を知っていて、実行できる人物。世界を壊そうとした眞悧を運命の乗り換えを利用してこの世界から追放しようとしたけど相打ちになって二つのペンギン帽になる。運命の乗り換えには自分の身を灼かれるという代償がついてまわる。それを厭わずに、ゆりと田蕗を運命を乗り換えて救う。
 おとん&おかん:おかんは桃果を忘れられないと言う。おとんは忘れないと生きていけないと言う。ほいで離婚。だから苹果は、自分が桃果になれば家族が元通りになると思った。

*過去の呪い
 最初は女の子たちにかけられた呪いを解くっていう、ウテナと同じテーマなのかと思っていたんだけど、晶馬と冠葉もがっつり過去に呪われていて、終盤では陽毬が冠葉の、苹果が晶馬の、呪いを解こうと奔走してた。んで、最後にそれが反転したということでよろしいのでしょうか。そんな単純でもねえのか。
 登場人物漏れなく過去に呪われているというストーリーだったね。過去の呪いは万人にかけられていて、それが顕著に具現するのが高倉さんちと桃果・苹果姉妹ってことなのかなぁと思った。
 ピングドラムと運命の乗り換えの関係性はよくわかんなかったよ。苹果の日記の中に運命の乗り換えのための呪文があったとして、それはピングドラムとして認識されるものではない。そもそもペンギン帽自体、ピングドラムについては曖昧な認識しかなさそうだ。ペンギン帽が次第に桃果としての意識とかを取り戻していったとかなのかな。
 ピングドラムが愛なのだとすれば、愛が足りなくて死ぬってことになる。そうでもねえと思う。分け合うことがピングドラムなのだとしたら桃果の日記にそれを求めた理由がよくわからない。運命の乗り換えが起こるためにピングドラムが必要とかなのかな。桃果はゆりとか田蕗とピングドラムをわけわけしたのかな。ピングドラムは運命の果実か。運命かな。よくわかんないね。だけど分け合うってことはキーワードなんだよなあ。
 蠍の炎は言わずと知れた銀河鉄道の夜のエピソードだ。利己的に生きた蠍がいたちから逃れようとして井戸に落ちて溺れて死ぬ。こんなことで死ぬのなら、いたちに食べられてその空腹を癒してやればよかった、次の生があるならだれかの幸のためにこのからだを使って欲しいと願った蠍を、かみさまが天に上げて星にした。利己的なものの、改心、献身。
 冠葉は光を見つけた。光を残すために自分の命を捧げた。あの蠍のように、だれかのほんとうの幸のためなら、ぼくはからだを百ぺん灼かれたって構わない。だけど、ほんとうの幸とはなんなのだろう。ぼくわからない。
 晶馬は、苹果の身代わりに焼かれて消えた。陽毬を生かすために自分の身を差し出した苹果に、これは僕らの罰だからと言って。僕の、ではなくなっていた。それが、兄弟ですべてわけあったあかしだ。
 運命の乗り換えで、陽毬の病気、つまり陽毬の罰はなかったことになる。だけど三人で分け合った罰で、或いは苹果の身代わりで、消えた冠葉と晶馬はそのまま世界から消えた。
 愛のある自己犠牲の、りんごはご褒美であるのならば、冠葉と晶馬と陽毬と苹果はそこに至ったと見るべきでしょうか。

*企鵝の会
 なんかすごい単純なイメージで、社会主義的な話なのかなーと思った。現存の社会主義でなく、理想論の方。
 ちっさい冠葉と晶馬が檻に入れられてたくだり、あれも現実なのか心象風景なのかわからんが、現実として、飢餓状態で食べ物を分け合える人間かどうかを見極める装置とも見えなくない。分け合ったからふたりで出してもらえたのではないか。冠葉が一人で食べていたら、実父の死後夏芽の家に戻されてたとかなんじゃないかな。
 しかしまじで時系列がわからない。冠葉と晶馬は檻の中が初対面なのか。それとも名乗り合ったのがはじめてなだけで、企鵝の会集会で見知ってはいたのかな。陽毬が高倉家に引き取られたあと、冠葉の実父が死んじゃう前の話なのかな。

*アダルトチルドレンたちの物語
 しかしこれも、見事にこどもしか出てこない話だったな。それも傷ついたこどもばかりだ。田蕗とゆりのダイアログで総括してたけど、みんながみんないらないこどもで傷ついていて、だから過去に呪われていて、愛してるって言ってほしくて愛してるって言いたいのだ。だれかとひとつの果実を分け合いたい。それが、とてつもなく難しいことでも。
 冠葉はひとりで傷つきすぎた。三人で分ければよかった。
 晶馬はひとりで抱え込みすぎた。三人で分ければよかった。
 陽毬には病気が顕れた。罰の一番わかりやすい具現だ。兄たちは一層自分を責めるよね。だけど、一方的な献身じゃなかったんだよね、求められているのは。
 本当の高倉夫妻のこどもは自分だけだから、罰を受けるのは自分だけでいいはずだと言う思いが晶馬にあって、だけど確かに冠葉と陽毬がいることで救われていることがあって、でも本当の家族ではないから苹果に指摘されたら逆上して、ここまでだって冠葉に言われて傷ついて同じこと陽毬に言って、結局また自分を責めるのだよね。わたし晶ちゃん好きだからつい彼にフォーカスしてしまう。
 それが最後の生存戦略でやっと愛も罪も罰も三人で分け合って、本当の家族になって、そしてそこからまた失われると言う。なにがこんなにかなしいのだろうね。ウテナのときよりも余韻のかなしさがひどいんだ。家族の話だからか。わたし、家族の話にも弱いんだ。
 幾原さんの作る世界にはまともな親って出て来ないんだよね。まともじゃないか不在なのだ。或いは彼ら自身がこどもである。

*宮沢賢治の話
 冒頭で話題に上っていたり、冠葉と晶馬の名前だったりりんごが苹果だったり蠍の炎だったりで銀河鉄道の夜ばっかりフィーチャーされてるように思われているが、他のも結構たくさんコラージュされているよね。妹が死ぬなんてまんま永訣の朝・松の針・無声慟哭だし、透明な存在とか幽霊とか春と修羅の序文にある「あらゆる透明な幽霊の複合体」を想起させるし。というわけで眞悧さんのイメージはなんかこんな感じ。
 企鵝の会の下りでは先述のとおりサキノハカや、小岩井農場パート9を思ったし、彼らの憎む世界はどんぐりと山猫の、自分が一番偉いのだと言い合うどんぐりたちのようだ。まあこの辺りはこじつけにも近いよ。妹の死なんかよくあるファクターだし。
 ジョバンニは、お父さんが密猟者と間違われて捕まったって噂が広まって、級友たちから犯罪者のこどもだってはやし立てられる。仕送りもなくなるから病気の母の面倒を見ながら生計を立てるために遊ぶ時間もなく働きに出る。お祭りの夜も、級友たちが遊んでいるのに一緒に行けずに、どうしようもなく孤独を感じる。父は犯罪者じゃないと思っているけれどもどうにも出来ずにはやし立てられて、どこか遠くへ行ってしまいたいと思う。そのとき、カムパネルラが一緒に行ってくれたらどんなにいいだろうと考える。彼だけはジョバンニを悪く言わない。僕はもうカムパネルラが本当に僕のともだちになって決してうそをつかないなら、僕は命でもやってもいい。
 カムパネルラはザネリを助けて死んでしまう。銀河を走る鉄道の中で、カムパネルラはおっかさんのことを思う。おっかさんは僕をゆるしてくれるだろうかと。おっかさんの本当の幸はなんだかわからないけれど、正しいことをしたら誰だって幸になる、だからきっとおっかさんは僕をゆるしてくれると思う。カムパネルラのおっかさんは最後まで物語には出て来ないけれど、息子の、自己犠牲だろうが、死を幸だと思える母親っているのかね。生きている方がいいだろうよと思うよ。比較の問題なのかもわからない。宮沢賢治はグスコーブドリの伝記なんか書いちゃうひとだから、みんなのために死ねることに対する憧れがすごかったんだと思うけど、おまえの自己犠牲に家族を巻き込むなと言いたい。おまえの死で、一体どれだけの人間がかなしくなって不幸になると思っているんだ。
 そう言う観点からすると、世界から消えた冠葉と晶馬の記憶が、存在そのものが消えてなくなっているというのは救いだ。忘却は罪だけれど、救いだよ。自分たちの今の平穏でささやかだけれども幸せな生活が、誰かの自己犠牲の死のおかげで成り立っているなんて、それが自分のとても大切なひとのだって、思いながら生きるのなんてそれこそ罰以外のなにものでもない。陽毬と苹果が生きていくのに、なんてやさしい世界だろう。

*高倉家の話
 高倉家のエピソードとして、冠葉と陽毬には父母からかばわれた話があるが、晶馬にはない。実子だから必要ないのかも知れない。血がつながらないふたりだけには、そうやって身を以てかばってくれるということで形づくられるものが必要だったのかも知れない。
 晶馬には両親のいなくなったあと、冠葉と陽毬が必要だった。もし、高倉のおとんとおかんがそれを見越していたとしたなら、なんという愛だろうかと思ってしまうよ。よそのお子さんふたり犠牲にしているけどね。うつくしくて手前勝手だ。当のこどもの方は犠牲だなんて思っていないからね。晶馬は両親を憎んでいるけれど、冠葉と陽毬は高倉の両親のこと大好きだよね。両親がテロリストだから自分たちはいつまでも普通には暮らせない、罰を受けて陽毬は死に至る病に罹ってしまう。晶馬はこう考えているけれど、陽毬と冠葉は高倉家で得たものが大きすぎる。それを失いたくないがために冠葉は修羅の道を行こうとするし、それがあったから陽毬は死を受け入れようとしている。
 全話見終わったあとに、いっちゃん最初のエンディングのDear Future聴くと、どうにもぐっと来てしまっていけない。わたしは、晶馬にきみのせいじゃないと言ってくれる誰かを求めている。冠葉に、だからそうじゃないと言ってくれる誰かを求めている。本当はそれは、親の役割じゃないのかな。親と言うか、おとなの。だって、親の因果が子に報い、って、ほんとナンセンスじゃん。そんなの晶馬のせいじゃねえよ。冠葉のでも、陽毬のせいでもねえよ。って、わたしは誰かに言って欲しかったんだ。だけどそれを届くことばとして発せられる人間が、あの世界には誰もいなかった。
 晶馬は愛されて育ったこどもなのだろうと邪推する。だからこそこどもブロイラーから陽毬を助けようとした。そのかわり、愛していた、愛されていた両親が大勢の人間を殺していたという事実を知らされた時、それが無意味になってしまったのかも知れないね。家族と言う小規模なコロニーが、社会とか世界と言う大規模なものに直結してしまって、自分たちを守るためには元凶をどうにもならないもの、両親においてすべてを受け入れるしかなくなってしまった。諦めだよ。諦めちまったこども程かわいそうなものはないよ。他のキャラクターのように虐待ではないが、両親が晶馬につけた傷は大きい。
 唯一、そう言う描写のない桃果はきっと、すべてのこども(=いらないもの)の中で、愛されて育ったこどもの象徴なんだろうな。だからこそ、諦めないし運命の乗り換えができるなんていうチートキャラなのだろう。桃果最強。
 眞悧はもう、ある日僕はこの世界が嫌いなんだと気がついた、って言うことばだけで充分だと思う。この世界は嫌になる要素に溢れているよ。 そして一連の組織を作るのだから、理由は推して知れる、ような気がするよ。

*ペンギンの話
 生存戦略でペンギンの話。氷の崖の上、密集したペンギンたちの一番最初に水に落ちるやつは海中にひそんでいるトドに食われる可能性が高い。例えば、利他的な個体がいたとして、みんなのためにと海中に真っ先に飛び込んだとして、利他的な個体は真っ先に死ぬ。それ以外の、利己的な個体の遺伝子だけが残る。生存戦略!!

*最後に
 宮沢賢治は、ジョバンニに、最後まで一緒に行けるひとはだれもいないと諭した(そのあと消したけど)。カムパネルラは遠くに行ってしまった。ジョバンニはひとりで、みんなのために、ほんとうの幸福を探すと決意して、歩いていく。或いは、カムパネルラの死を聞いて、胸がいっぱいになりながら、母の元へ帰る。この終わり方がどうにももやもやして、切なくてだけどどうにもしようがなくいた身としては、ちっさい冠葉と晶馬が一緒にどこに行こうって言いながら歩いていくシーンは本当に救いだったよ。だから、どこへ行こうか、それなら、のあとに続くことばが、銀河鉄道の夜からの引用であればいいと思うよ。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう。ああ、きっと行くよ。
 なんでこんなにかなしくて、涙が止まらなくて胸に焼き付いてしまうのかって思ってたの、もう無くなってしまった、二度と甦ることのない、高倉三兄弟への感傷なんだろうな、とここまで書いて思った。だからこんなにもかなしいのだ。冠葉の陽毬への思いも、陽毬の晶馬への思いも、晶馬と苹果が心通わせることも、もう二度とない世界になっちゃったのだ。そこへの乗り換えは、だけど愛と分ち合いで行われた。かなしみはもうたくさんなんだ。
 今年の最後に、ええもん見た。もうそうとしか言えれん。音楽もすごいよかった。ぐじゃぐじゃ書いてみっともないが、少しはすっきりしたよ。もうかなしすぎて発狂するかと思った。ことばにするって、大事だね。

 ほいで、かんしょうって打って一発目の変換が冠晶であることにわたしの残念さがある。

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ものかき・妄想・うたうたい
自己紹介:
・硝子細工の夢でもいいので、与えて欲しいものです。
・サスケスキー且つヒバリスト。
・東京生まれ湘南育ち京都在住。
・海がない生活なんて無理とか思ってたけどそんなでもなかった。
・盆地でなんて生きられないとか思ってたけどそんなでもなかった。
・No Music,No life.No Mac,No life.No サンボマスター,No life.
・妄想で動いています。妄想で働いています。
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