もうなんかいろいろとだめな具合でお送りしております。
と言っても、わたしの読んだことのある少年漫画ってジャンプ系ばっかりかあんまりメジャーじゃないようなのばっかりな気がする。て言うかわたしも少年漫画の定義ってわからん。なのであんまり助言にもヒントにもならん気がします、と私信的な前置き。
参考文献:ダイの大冒険、ドラゴンボール、BLEACH、クロスボーンガンダム、クロスボーンガンダム鋼鉄の七人、グラップラー刃牙、ワンピース、REBORN!、ネウロ、PSYREN。
とりあえず徒手空拳的に羅列。
少年漫画の主人公とは:出発点が世界との隔絶或いは疎外感である。んで、規模を問わず悪との戦いを通して仲間を獲得、世界との隔絶・疎外感は薄れて世界の中心になっていく。たまに挫折もするよ。諦めてぜんぶ投げ出したくもなるよ。でもそんな時、支えてくれたりケツひっぱたいてくれたりする仲間がいるよ。仲間は主人公を信頼しているし頼もしく思うし頼るけど、根っ子の部分ではきちんと一個の、ただの人間として扱っていることがある。わたしはダイの大冒険が思っている以上に大好きみたい。て言うかわたし的にザッツ少年漫画ってダイ大みたい。
主人公は最後に、必ず勝つ。それまでは負けてもいい。先述の通りくじけても諦めかけても最終的な勝利に繋がればいい。んで、最終決戦の場に於いて、仲間の助けは精神的なものが主で、物理的にはひとりで立ち向かって勝つ。己の生死は問わない。ただ勝つ。
どうでもいいけど弥子は少年漫画の主人公だよね。女の子だけど、しっかり少年漫画の主人公をしている。素晴らしい。物理的な能力は関係ないけど、中身がきちんと成長している。そう、少年漫画はビルドゥングストーリーであるのですよ、力だけでなく、精神的な成長もなくてはならない。
少年漫画って一騎打ちの美学があるよね。単なる様式美なのか力量の問題なのかはわからんが、ワンピースが今盛り上がっているのが混戦であるというのがとても興味深い。NARUTOで辛いなあと思うのは、一騎打ちで戦っている当事者二人以外が解説しているか棒立ちして見守っているかっていうところだ。異能力バトル系ならいくらでもサポートの仕様があると思うんだけど。どうでもいいけど雨宮さんが隙をついてシャイナの腕一本持ってったのはすげえと思った。それまでまったくかなわないでぼろ負けしていたのになあ。
あ、忘れるところだった。主人公は仲間を大切にするし仲間に大切にされる。仲間が傷ついたら怒る。自己犠牲的精神に富む。だから、最終決戦の時に己の生死を問わずにいられるのだ。死ぬかも、という感覚はある。その上で、死んでも守ると言う選択をする。己の死、と言う価値観が、それ以上に選びとるものとしての勝利の価値を上げる。結果死ななくてもいいの。己の死と世界の存続を天秤にかけて、それを人間一個人の問題として、選びとると言うプロセスが必要なのだ。そうしないと勇気ではなく蛮勇になってしまう。己の死という、一個人にとっての最悪の結果を見据えた上での覚悟・決断でなければいけないのだ。
わたし、目と顔と名前を失っても生き延びてテテニスのところに戻って来たトビアは、やっぱり少年漫画の主人公だと思うんだ。ベラ・ロナとして生きるセシリー・フェアチャイルドのためにシーブック・アノーがそれまでの名前と自分を捨ててキンケドゥ・ナウになったのも。本当にどうでもいいけどこの前甥のクリスマスプレゼント買いに行った時、X1フルクロスつい買っちまいそうになった。買えばよかったなあ。
こんな感じで友情と勝利はクリアでしょうか。努力はなあ、修行するとかそう言うことなんですかね。最近省略されがちだよね。でも必ず先生とか師匠的なポジションのひとは出てくる。と言うか、すごい技を繰り出した時点で、あいつはあんなに強いのに更にそんな技を会得していたのか!的な驚きとともに提示されることが多いような気がする。大体日常描写の端っこで筋トレしてたりするよね。努力をストーリーとして飽きさせずに鶴ってものすごく大変だと思うんだ。継続は力なりの地味なメニューの繰り返しだもんなあ、普通に考えて。いや、バキみたいに人間大の蟷螂持って来られてイメージトレーニングで格闘して修行とかそんなん、量産しろと言う方が土台無理な話ですわ。
ひとりで考えるとこんな感じ。んで、提示されていて上記でかすりもしなかったものについて以下。
勝利と努力がある以上、主人公には成長が要求される。従って敵対者にはその成長に応じた相手が設定される。パワーインフレが発生することは必至である。強さに於いて明確なゴールラインは設定されておらず、とりあえず敵対者に勝つことでのみ示される。
主人公は勝つことで敵対者を救済する。これ枚挙に暇ないよね。そいで敵対していたひとが、次のステージで仲間になっていることは本当に様式美だ。そこでもパワーインフレが起こるので、たまに初期の仲間が影薄くなる。ヤムチャ涙目。きちんと仲間が増えていくだけでそれぞれの見せ場・立ち位置をキープしているのもあるよね。お母ちゃんとよく話すけど、ウソップは本当にえらいと思う。あと、これは個人的な感想だけど、チャドとダーイシ頑張れ、超頑張れ。
そう、仲間が増えていくんですよ、少年漫画って。最終的に世界を味方につけるわけですから。と言うか、世界の意志を代弁すると言う描かれ方が、わたしの読んだことのある少年漫画には多いような気がする。まあ世界にもいろいろあるんだが。主人公の出発点もそうなんだけど、世界から疎外されている敵対者に対して勝利することで、オレもそうだった、でも今は仲間がいるんだって方向で引き込むよね。それが救済なのである。滅多にひとは殺さない。余程の悪党でないと殺さない。余程の悪党は殺したと思っても生きている。イエス、フリーザさま!ピッコロさんは悟空親子に籠絡された感じだよね。クロコダインとかヒュンケルとかラーハルトとかヒムとかハドラーとか大好きなんだ。ところでむっくんとかヴァリアーはともかく、雲雀さんはこの辺りにいっしょに並べていいんだろうか。あと、ギリが死んじゃう時、わたし泣いた。
で、こっからNARUTOを考えてみると、大筋では外れていないように思うんだ。細かいところですかね。精神的な成長がないとか、救済した相手が仲間ではなく信奉者になっちゃってケツを叩いてくれる仲間がいないとか、世界との親和性がまったく現れて来ないとか。
ゴールラインがサスケとの対決で、つまりサスケの救済だとするのなら、サスケの救済がなにかを考えなければいけないんだよね。そこもよくわからない。んで、そこをナルトが思慮深く考えて慮って、あるいは天然で起こす行動で以て突き止めてくれるんだろうかってところにもわたしは懐疑的。何故だ。我愛羅と言う前例があるにも関わらずだ。あれかな、ペインと言う悪例が最近あったからかな。その割にはあれは印象にうすいんだが。何故だ。
結局疑問で以て終わるのだった。どうにもならねえなあ。
ところでナルトが世界から未だ疎外されているように見えるのは(或いは疎外されていると思い込みたがっていると思ってしまうのは)わたしの妄想なんでしょうか。教えて偉いひと!
追記:て言うか肝心なこと書き忘れていたよ。
ナルトは死の概念が希薄、と言うかあんまり理解している節がないのも問題だ。
引き換えとしての己の死、と言うのがものすごい軽い、と言うか自分が死ぬってことわかってないんじゃねえかって思うことがある。ひとりで片を付けたがるあたりとかね。
なのでこのままだと、来るべき最終決戦の時に、ナルトも他の主人公たちと同じように自分が死んでも事態を好転させようとするかも知れないけど、その場面に説得力があるかどうかがすごく心配。それでも、作中のひとびとはナルトを更なる英雄として扱うんだろうけどなー。
共感性の低さも問題なんだろうか。少年漫画の主人公が、現実の少年たちにとって感情移入するための存在だとするならば、共感出来ないことは非常なる問題のはずなんだが、なんかNARUTOってこども人気高いらしいしなあ。こどもがこぞってナルトの格好したりしてるし、小学生がサスケ悪いやつとか言ってるのも見たことあるし。
こうなってくると、わたし自身が少年漫画の読者として失格であるような気がして来るのだった。でも好きなんだけどなあ、俗に少年漫画と呼ばれる漫画。
参考文献:ダイの大冒険、ドラゴンボール、BLEACH、クロスボーンガンダム、クロスボーンガンダム鋼鉄の七人、グラップラー刃牙、ワンピース、REBORN!、ネウロ、PSYREN。
とりあえず徒手空拳的に羅列。
少年漫画の主人公とは:出発点が世界との隔絶或いは疎外感である。んで、規模を問わず悪との戦いを通して仲間を獲得、世界との隔絶・疎外感は薄れて世界の中心になっていく。たまに挫折もするよ。諦めてぜんぶ投げ出したくもなるよ。でもそんな時、支えてくれたりケツひっぱたいてくれたりする仲間がいるよ。仲間は主人公を信頼しているし頼もしく思うし頼るけど、根っ子の部分ではきちんと一個の、ただの人間として扱っていることがある。わたしはダイの大冒険が思っている以上に大好きみたい。て言うかわたし的にザッツ少年漫画ってダイ大みたい。
主人公は最後に、必ず勝つ。それまでは負けてもいい。先述の通りくじけても諦めかけても最終的な勝利に繋がればいい。んで、最終決戦の場に於いて、仲間の助けは精神的なものが主で、物理的にはひとりで立ち向かって勝つ。己の生死は問わない。ただ勝つ。
どうでもいいけど弥子は少年漫画の主人公だよね。女の子だけど、しっかり少年漫画の主人公をしている。素晴らしい。物理的な能力は関係ないけど、中身がきちんと成長している。そう、少年漫画はビルドゥングストーリーであるのですよ、力だけでなく、精神的な成長もなくてはならない。
少年漫画って一騎打ちの美学があるよね。単なる様式美なのか力量の問題なのかはわからんが、ワンピースが今盛り上がっているのが混戦であるというのがとても興味深い。NARUTOで辛いなあと思うのは、一騎打ちで戦っている当事者二人以外が解説しているか棒立ちして見守っているかっていうところだ。異能力バトル系ならいくらでもサポートの仕様があると思うんだけど。どうでもいいけど雨宮さんが隙をついてシャイナの腕一本持ってったのはすげえと思った。それまでまったくかなわないでぼろ負けしていたのになあ。
あ、忘れるところだった。主人公は仲間を大切にするし仲間に大切にされる。仲間が傷ついたら怒る。自己犠牲的精神に富む。だから、最終決戦の時に己の生死を問わずにいられるのだ。死ぬかも、という感覚はある。その上で、死んでも守ると言う選択をする。己の死、と言う価値観が、それ以上に選びとるものとしての勝利の価値を上げる。結果死ななくてもいいの。己の死と世界の存続を天秤にかけて、それを人間一個人の問題として、選びとると言うプロセスが必要なのだ。そうしないと勇気ではなく蛮勇になってしまう。己の死という、一個人にとっての最悪の結果を見据えた上での覚悟・決断でなければいけないのだ。
わたし、目と顔と名前を失っても生き延びてテテニスのところに戻って来たトビアは、やっぱり少年漫画の主人公だと思うんだ。ベラ・ロナとして生きるセシリー・フェアチャイルドのためにシーブック・アノーがそれまでの名前と自分を捨ててキンケドゥ・ナウになったのも。本当にどうでもいいけどこの前甥のクリスマスプレゼント買いに行った時、X1フルクロスつい買っちまいそうになった。買えばよかったなあ。
こんな感じで友情と勝利はクリアでしょうか。努力はなあ、修行するとかそう言うことなんですかね。最近省略されがちだよね。でも必ず先生とか師匠的なポジションのひとは出てくる。と言うか、すごい技を繰り出した時点で、あいつはあんなに強いのに更にそんな技を会得していたのか!的な驚きとともに提示されることが多いような気がする。大体日常描写の端っこで筋トレしてたりするよね。努力をストーリーとして飽きさせずに鶴ってものすごく大変だと思うんだ。継続は力なりの地味なメニューの繰り返しだもんなあ、普通に考えて。いや、バキみたいに人間大の蟷螂持って来られてイメージトレーニングで格闘して修行とかそんなん、量産しろと言う方が土台無理な話ですわ。
ひとりで考えるとこんな感じ。んで、提示されていて上記でかすりもしなかったものについて以下。
勝利と努力がある以上、主人公には成長が要求される。従って敵対者にはその成長に応じた相手が設定される。パワーインフレが発生することは必至である。強さに於いて明確なゴールラインは設定されておらず、とりあえず敵対者に勝つことでのみ示される。
主人公は勝つことで敵対者を救済する。これ枚挙に暇ないよね。そいで敵対していたひとが、次のステージで仲間になっていることは本当に様式美だ。そこでもパワーインフレが起こるので、たまに初期の仲間が影薄くなる。ヤムチャ涙目。きちんと仲間が増えていくだけでそれぞれの見せ場・立ち位置をキープしているのもあるよね。お母ちゃんとよく話すけど、ウソップは本当にえらいと思う。あと、これは個人的な感想だけど、チャドとダーイシ頑張れ、超頑張れ。
そう、仲間が増えていくんですよ、少年漫画って。最終的に世界を味方につけるわけですから。と言うか、世界の意志を代弁すると言う描かれ方が、わたしの読んだことのある少年漫画には多いような気がする。まあ世界にもいろいろあるんだが。主人公の出発点もそうなんだけど、世界から疎外されている敵対者に対して勝利することで、オレもそうだった、でも今は仲間がいるんだって方向で引き込むよね。それが救済なのである。滅多にひとは殺さない。余程の悪党でないと殺さない。余程の悪党は殺したと思っても生きている。イエス、フリーザさま!ピッコロさんは悟空親子に籠絡された感じだよね。クロコダインとかヒュンケルとかラーハルトとかヒムとかハドラーとか大好きなんだ。ところでむっくんとかヴァリアーはともかく、雲雀さんはこの辺りにいっしょに並べていいんだろうか。あと、ギリが死んじゃう時、わたし泣いた。
で、こっからNARUTOを考えてみると、大筋では外れていないように思うんだ。細かいところですかね。精神的な成長がないとか、救済した相手が仲間ではなく信奉者になっちゃってケツを叩いてくれる仲間がいないとか、世界との親和性がまったく現れて来ないとか。
ゴールラインがサスケとの対決で、つまりサスケの救済だとするのなら、サスケの救済がなにかを考えなければいけないんだよね。そこもよくわからない。んで、そこをナルトが思慮深く考えて慮って、あるいは天然で起こす行動で以て突き止めてくれるんだろうかってところにもわたしは懐疑的。何故だ。我愛羅と言う前例があるにも関わらずだ。あれかな、ペインと言う悪例が最近あったからかな。その割にはあれは印象にうすいんだが。何故だ。
結局疑問で以て終わるのだった。どうにもならねえなあ。
ところでナルトが世界から未だ疎外されているように見えるのは(或いは疎外されていると思い込みたがっていると思ってしまうのは)わたしの妄想なんでしょうか。教えて偉いひと!
追記:て言うか肝心なこと書き忘れていたよ。
ナルトは死の概念が希薄、と言うかあんまり理解している節がないのも問題だ。
引き換えとしての己の死、と言うのがものすごい軽い、と言うか自分が死ぬってことわかってないんじゃねえかって思うことがある。ひとりで片を付けたがるあたりとかね。
なのでこのままだと、来るべき最終決戦の時に、ナルトも他の主人公たちと同じように自分が死んでも事態を好転させようとするかも知れないけど、その場面に説得力があるかどうかがすごく心配。それでも、作中のひとびとはナルトを更なる英雄として扱うんだろうけどなー。
共感性の低さも問題なんだろうか。少年漫画の主人公が、現実の少年たちにとって感情移入するための存在だとするならば、共感出来ないことは非常なる問題のはずなんだが、なんかNARUTOってこども人気高いらしいしなあ。こどもがこぞってナルトの格好したりしてるし、小学生がサスケ悪いやつとか言ってるのも見たことあるし。
こうなってくると、わたし自身が少年漫画の読者として失格であるような気がして来るのだった。でも好きなんだけどなあ、俗に少年漫画と呼ばれる漫画。
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HN:
蘭
HP:
性別:
女性
趣味:
ものかき・妄想・うたうたい
自己紹介:
・硝子細工の夢でもいいので、与えて欲しいものです。
・サスケスキー且つヒバリスト。
・東京生まれ湘南育ち京都在住。
・海がない生活なんて無理とか思ってたけどそんなでもなかった。
・盆地でなんて生きられないとか思ってたけどそんなでもなかった。
・No Music,No life.No Mac,No life.No サンボマスター,No life.
・妄想で動いています。妄想で働いています。
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